湊雅博 | www.masahirominato.com
2011 |  2010 | 2009 | 2008 | 2007

『「ルーペ」としての写真』深川雅文(川崎市市民ミュージアム学芸員)

 かつて風景写真が、撮影した場所と地名にしっかりと結びついていた良き時代があった。岡田紅陽の「富士山」の風景写真、アンセル・アダムスの「ヨセミテ渓谷」の写真…モダニズムの写真美学に反旗を翻したルイス・ボルツの写真ですらも例外ではなかった…たとえば、「キャンドルスティックポイント」のように。

 90年代、ベルリンの壁の崩壊に始まるかつての歴史観の崩壊、デジタルテクノロジーによるバーチャルなグローバルコミュニティーの進展などとともに、風景写真にある種の変質が見られるようになった。場所の意味性への依存を振り切った風景写真が当然のごとく姿を現してきた。場所名のない風景の写真…たとえば、横澤典の「Spilt Milk」や津田直の「近づく」のように。私は、このような状況下では、新たな風景写真は、場所依存から解放された写真として別の名前で呼んだほうがいいかもしれないと考え「サイトグラフィックス」という言葉を提案し、同名の展覧会を企画したことがある(2005年)。あれから三年…写真の風景はどこに行こうとしているのか?

 意味の源泉としての「場所」を失った風景写真—そこにおいては、写真が依って立つ基盤は、場所が「どこなのか」ではなく、作家が「どう」見るのかというその一点へと集約されていく。その度合いが、より高まってきているのではないか?「Invisible moments」と題された本展の写真群を見て、私は、あらためてその淡々としながらも確固たる進行状況を目の当たりにしている。

 場所の名前があらかじめ排除された本展の作品群を前にして次のような問いが浮かんできた。場所性に依存しないとしたら、その写真は、それを見る者にとって一体何になるのだろうか?

坂本政十賜、福居伸宏、湊雅博、山方伸…本展に集う四人は、それぞれに自らが選んだ光景を指差し、そこに向けて走り出す。その指し示し方の独自性が、私たちの普段の世界の「見え」にいわば釘を刺し、覆いを揺り動かす。のっぺりとした日常の「見え」に、裂け目を入れ化の皮を剥がすこと。そこから異次元の「光」の「景」が輝き出してくる。
 そのとき、カメラはいわばルーペとなる。「ルーペ」というのは、おそらく場所の意味性とは無関係の視覚増幅装置であるからだ。作家が選んだ光景が、カメラ=ルーペによりそれぞれの仕方で拡大されて露にされる。かたや、カーナビや携帯のGPS機能の発達により私たちは容易に世界の精密な地図を手にすることができるようになった。しかし、地図化された世界は平面的でありいわば無機質化された情報の集積である。

 写真家よ、カメラ=ルーペを、独自の仕方でその場にあてがいフラット化された「地図」へのアンチテーゼを浮上させよ!そうして、私たちの生に喝を入れよ!!じつはそこかしこにそのためのInvisible momentsが潜んでいることを暴け!

 本展の作家たちが身をもって示しているのはそうした、ことのあり様である。